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実在した吸血鬼だとされる人物3選 血に塗れたその生き様とは

吸血鬼・ヴァンパイアと呼ばれる存在は近年においても小説・映画・漫画・アニメ・ゲームなど様々な創作作品に登場し、大きな人気を博しています。

そのような吸血鬼は伝承や神話に登場する怪物だと考えられることが多いです。しかし、この現実世界にも「吸血鬼」と呼ばれた人間が複数存在します。

今回は「実在した吸血鬼」の中から有名な人物からマイナーな人物まで3選を紹介していきます。

吸血鬼ってどんな存在? 吸血鬼の基礎について

実在した吸血鬼と呼ばれた人間を紹介する前に簡単に吸血について解説を行います。

吸血鬼という存在には様々な側面がありますが、最も有名な吸血鬼が「ドラキュラ伯爵」です。

ドラキュラは1897年にブラム・ストーカーによって発表された吸血鬼を題材にした小説です。この作品は発表当時すでに多く存在した吸血鬼作品の中でも傑作だとされ非常に高い人気を誇りました。その物語の中に登場する「ドラキュラ伯爵」は現代に登場する吸血鬼の雛形ともいえ、高貴な夜の貴族としての吸血鬼のイメージが日本で一般的になっていることにも大きく関係しています。

しかし、ドラキュラ伯爵の作り出した吸血鬼像は吸血鬼の一つの側面でしかなく、その起源は6〜7世紀まで遡ります。

吸血鬼の起源は東ヨーロッパ、バルカン半島周辺の民間伝承の一種であるとされ、複数の伝承が混じり合った結果生まれた存在です。その存在を端的に表すならば「人の血を飲む、動く死体の怪物」になります。つまり、この性質を持っていれば吸血鬼として扱うことができます。

さらに、時代の流れと共に吸血鬼の中には「血を吸わないもの」「生きているもの」など様々な種類の吸血鬼が発生、または認定されたため、広く見れば非常に輪郭の曖昧な存在であると言えます。

これらのことから、吸血鬼は狭く捉えれば東ヨーロッパの伝承にある「人の血を飲む、動く死体の怪物」、広く捉えれば「伝承の吸血鬼に近い性質を持つために吸血鬼認定された存在」であると言えます。

世界中で非常に有名な吸血鬼ですが、その実、明確な区別がなく非常に広い顔を持っていることがわかります。

動画でも記事の内容を紹介していますので、興味のある方は是非、ご覧ください。

実在した吸血鬼とされる人物5選 血塗られた彼、彼女たちの伝説

ここからは実在した人間の中から吸血であると「呼ばれる」人物を3名ほど紹介していきます。

吸血鬼であると呼ばれる人間は前述した広い意味の吸血鬼であり、その生前の行動や死後の伝承から「吸血鬼」だとされた人物です。しかし、実際に吸血鬼であったというわけではなく、日本的に表すならば「鬼のような人間」という人々の恐怖・畏怖を込めた呼称になります。

では、三者三様の彼、彼女たちがなぜ吸血鬼とされたのかなどについて紹介していきます。
※ここからは非常にグロテクスな表現が多いため苦手な方は注意してください。

ドラキュラ伯爵のモデルになった串刺し伯爵「ヴラド3世」

最初に紹介する人物が冒頭に紹介したドラキュラ伯爵のモデルとなったワラキアの領主「ヴラド3世」です。

ヴラド3世には残虐非道な様々な伝説がありますが、その中でも最も有名な伝説が「串刺し刑」です。罪のない人間を娯楽として虐殺した彼は、串刺し刑という処刑法を用いました。この刑は人間の口、または肛門に巨大な串を突き刺し、刺された人間が死ぬまで放置するという非常に凄惨なものです。

ヴラド3世は串刺し刑で死んだ人間の血を盃に入れて飲んだという伝説もあり、この様な様々な残虐の行いから人々から吸血鬼として恐れられました。

しかし、これはあくまで伝説であり、史実とは差異があります。彼が串刺し刑を用い串刺し公(ツェペシ)と呼ばれたことは事実ですが、その対象は罪人、反逆的な貴族、ヴラドに不遜な態度を取った外国人、また、敵国兵の捕虜です。

その理由には実質的に国内に領主よりも高い権力を持つ有力貴族を抑えこむ効果や、軍事力で圧倒的に劣る敵国の侵攻行為に対する対抗効果もあります。そして、実際に串刺し刑の効果は非常に高く、当時、東欧で最大の勢力を誇ったオスマン・トルコ帝国に侵略を受け、戦争を行った際には「串刺しされた兵が林のように並べられる風景」を見た敵国の指揮官を畏怖、撤退させたのです。この時、指揮官は「この様な男が相手では何ができようか」と呟いたという。

つまり、政治的に恐怖支配を行うために行なっていた行為であり、実際に彼が個人的な愉悦のために罪なき人を虐殺したというものではありません。不安定な内政の維持や敵国への牽制に行われた残虐な行為が彼の死後、彼に怨みを持つ人間によって誇張された結果が吸血鬼「ヴラド3世」の誕生なのです。

ヴラド3世の父であるヴラド2世には「ドラクル」という二つ名がありました。この「ドラクル」という名前はドラゴンの騎士団という高級貴族騎士団にヴラド2世が所属していたことに由来し、竜公の意味を持ちます。その息子であるヴラド3世は父の異名を受け継ぐ形で「ドラキュラ」と呼ばれるのですが、その名前の意味には様々な異説があります。

しかし、彼自身が「ドラキュラ」を名乗っていたことは事実であり、署名などで「ヴラド・ドラキュラ」と記載するなど「ドラキュラ」の名を気に言いていた様です。

究極の美を求め、吸血鬼となった血の伯爵夫人「エリザベート・バートリ」

 

次に紹介する人物が衰えぬ究極の美を求めた権力者「エリザベート・バートリ」です。

彼女の家元であるバートリ家は非常に高い権力を持ち、隣国のハンガリー領の伯爵家に嫁いだ後も彼女はその権力の高さから夫であるナーダシュディ・フェレンツ2世の性ではなく、バートリ姓を名乗り続けました。

彼女が吸血鬼と呼ばれた理由は「自身の美を衰えさせない」ために行った様々な残虐非道な行為にあります。もともと高い権力を持って生まれた彼女はわがままで傍若無人な性格をしていました。また、夫であるフェレンツ2世が戦争のために城をするにすることが多く、実質的な領地の支配者であった彼女の独裁はさらに加速します。

また、この時から既に彼女には美貌への異常な執着と残虐性が備わっていたとされていますが、夫の存在と義母が彼女の横暴の歯止めとなっていました。

しかし、1604年バートリが44歳になる時に夫であるフェレンツ2世が死去すると、彼女は邪魔な義母を毒殺し、名実ともに最高権力を手に入れたのです。

この年を皮切りに彼女の残虐非道な異常行動は加速します。

バートリは処女の少女の血液が若返りの美容薬であると信じていました。その理由に関しては伝説によると、彼女が侍女を殴って手についった血を拭き取ると肌が若返った様に見えたというものです。その後、「少女の血が美容に良い」と信じた彼女は自身の領内の農民の娘を拐かしては、残虐な方法で殺害して血を手に入れるようになります。

その方法は残忍性の高いもので、「体に穴を開ける、遺体を細切れにするなどの方法で血を搾り取る」「少女たちから集めた血液で満たされた浴槽に浸かる」「騒がないように口を縫い付けた少女の動脈を目の前で切り裂かせ、血のシャワーを浴びる」「鋭いトゲのある球形の檻の中に少女を入れ、浴槽の上に吊るすことで滴る血を浴びる」などです。また、彼女の残虐行為は異常な趣味嗜好を伴っていたため、血を集める以外にも黒魔術や食人などを伴う様々な拷問を楽しんでいたと言われています。

当初は身分の低い農民の娘を殺していたバートリですが、その魔の手は下級貴族の娘まで及ぶようになり。バートリ家の名を汚さぬように内密に処理されてきた彼女の大量殺人も夫の死後から6年経過した1610年に世間に露見します。裁判の結果、正確に殺害されたと認定された少女は80名ですが、実際に殺害された人数は300名を超えるとされ、彼女の自身の告白によると600人以上とも言われています。

これらのような、血にまつわる一連の事件が彼女を「吸血鬼」と呼ばれるに至らしめたのです。

最終的に家元の権力の高さから処刑されることはなかったバートリですが、1日に1度のみ食事を入れる小さな小窓を除き、扉も窓の塗り固められた暗黒の部屋の中に幽閉されることになり、幽閉から3年半後に死去しました。

このように、暗黒の太陽の光もない劣悪な環境で50代の女性が3年間以上も生き延びたことも、彼女の吸血鬼性を高める原因となっています。

奇妙な方法で吸血鬼になった国家公認の男「アルノルト・パウル」

最後に紹介するのはセルビア人の傭兵です。ここまで紹介した人物は権力者であり、生前の残虐な行為から「吸血鬼」と呼ばれた人物でしたが、パウルは死後の異変によって「吸血鬼」と呼ばれた実在する人間であります。また、パウルは数少ない国家に公式認定された「実在した吸血鬼」の一人です。(ヨーロッパの大国が公的に吸血鬼と認定した実在の人物・事件は2名とされ、そのうちの一名がパウルです)

パウルが吸血鬼になったのが1722年ごろとされ、パウルの事件が最終的に収束したのがパウルの死後5年の1731年だとされています。この一連の事件は神聖ローマ帝国の調査団によって公的な文章にまとめられました。

パウルの吸血鬼化に関する通称「パウル事件」の詳細が記された報告書は【見聞録】と呼ばれます。このパウル事件には大きく2段階の事件が関係しています。

第一の事件がパウルの吸血鬼化から死までの事件です。戦場で吸血鬼に襲われ、取り憑かれたパウルはその苦しみから解放されるため、なにを考えたのか吸血鬼の墓の土を食べ、血液を体に塗ったのです。しかし、この行動が功を奏したのかパウルは吸血鬼の取り憑きから解放されましたが、不幸にもそのすぐ後に荷車に押しつぶされる事故で首の骨を折って死んでしまします。

だが、それから20〜30日が経過した頃から死んだはずのパウルに村人や家畜が襲われる様になり、実際に4人の村人と複数の家畜が死にました。この事件を受け、村人と衛兵たちはパウルの墓を掘り起こし遺体を確認したところ「死後40日は経過しているが遺体に腐敗がない、口などから鮮血が流れ出てい棺桶の中が血塗れになっている、四肢の皮膚や爪が剥がれ落ち新しくなっている」など伝承にある吸血鬼の特徴と遺体の状況が一致していることを確認します。

そして、村人たちが伝承にある吸血鬼対策に従いパウルの心臓に杭を打ち込むと、彼は苦しげな声を上げながら全身から血を吹き出したのです。その後、彼の遺体は火葬され、遺灰は皮に流されました。

これで一件落着したと思われたパウル事件ですが、第二の事件が発生したのです。

パウルの心臓に杭が打ち込まれた1726年から5年経過した、1731年にパウルが吸血した家畜の肉を食べた村人たちから次々と死人が出始め、3ヶ月で合計17名が死亡者が出るという新たな事件が発生します。そして、村人たちが国に調査の要請を行いました。

この際に行われた調査によって、第一の事件を含めた一連のパウル事件が国によって公的に調査され、明らかになったのです。

この調査の際に17名の遺体を複数の軍医が検視したのですが、死後一ヶ月以上経過しているにも関わらず腐敗していないなど「パウルの遺体と一致」する状態が12体発見され、軍医はこれを吸血鬼化している状態だと断定しました。

この、12名の遺体は地元のジプシーによって首が切り落とされ、火葬の後に遺灰は川に流されました。これによって一連の「パウル事件」は終息しました。

そして、このパウル事件の報告書は欧州の上流階級のサロンに参加する知識人たちの間で大いに注目を浴びたのです。

最後に現代日本の吸血鬼文化について

今回紹介した3名の吸血鬼は「実在する人物」という狭い括りの中でも1/3程度であり、吸血鬼全体をみると一握りです。

しかし、この様に幅が広く種類も多いということが現代の「吸血鬼人気」を証明しているのかもしれません。今回紹介した実在した吸血鬼のうちヴラド3世とラートリは日本でも非常に有名ですが、最後に紹介したアルノルト・パウルなどは日本でもほとんど知られていないです。

また、日本の文学作品『髑髏検校』には和製ドラキュラとも言える「不知火検校」という日本の吸血鬼が登場します。

吸血鬼には「相手を魅了する能力」があり、その様な能力に関する魔術も今後紹介します。その際には是非、この記事を想起して吸血鬼という存在の奥深さと面白さを感じてください。

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